【巻頭言】
酵素工学と構造生物学
山根 隆
名古屋産業科学研究所
近年持続成長可能な社会の実現のために、化学工業の分野では環境への負荷が少なく効率の良い生産を目指した科学技術、製品の開発が重んじられるようになった。環境にやさしい化学、いわゆるグリーンケミストリーの基本的な考え方(Anastas, P. T. & Warner, J. C.,“Green Chemistry: Theory and Practice”, Oxford University Press: New York,1998)の中に「Catalysis:できる限り触媒反応を選択する」が取り入れられている。化学者にとって酵素のように常温常圧で高い特異性と優れた反応効率を兼ね備えた触媒の開発は大きな夢といえるが、酵素工学の目標の一つは、理想のグリーン触媒である酵素の工業的利用に関する様々な技術開発である。その中でも、1)酵素の機能改善、2)目的とする酵素の効率の良い生産、は重要である。
1)では、タンパク質の基質認識部位の構造を変えることにより、新たに優れた反応特異性を示すタンパク質の創出が挙げられる。新規なタンパク質のデザインにバイオインフォマティクスの果たす役割は大きいが、やはり構造情報は有用である。例としてα-amino-ε-caprolactam(ACL)などの環状アミノラクタムをラセミ化するα-amino-ε-caprolactam racemase(ACLラセマーゼ)を挙げよう。ACLラセマーゼはアミノ酸アミドに対する活性が低いが、嵩高い側鎖を持つアミノ酸アミドやCβで分岐した側鎖をもつアミノ酸アミドに対する活性を発現できれば、種々のアミノ酸の光学分割の収率の飛躍的な向上が期待できる。そこでACLラセマーゼ―基質類似体複合体における活性部位の構造を観察し,基質であるアミノ酸アミドの側鎖を収容できるように分子設計を行うことにより、Phe-NH2に活性を有するACLラセマーゼ変異体が作り出されている。さらに、変異体とIle-NH2複合体の構造の検討から、Cβで分岐した側鎖をもつアミノ酸アミドに対する活性発現に必要な3か所の変異が提案されている。2)では、発現したタンパク質の可溶化について考えてみたい。タンパク質が耐熱性を獲得するためのアミノ酸変異はタンパク質のドメイン境界、サブユニット境界での疎水的性質を高めることが有効であることが明らかにされている。興味深いことに、標的タンパク質の疎水性の変化が収率の向上にも有効と思われる。あるhydroxynitrile lyase(HNL)の遺伝子組換え体を大腸菌で発現すると、封入体を形成し収率が非常に悪かった。そこで、ランダムに変異を導入し封入体の形成が減り収率の向上したHNL変異体の構造を決めたところ、変異部位がHNLの2量体⇔4量体の平衡に関与していることが示唆された。オリゴマー界面に適当な疎水性の領域を導入することにより、平衡が2量体に傾きHNLの溶解度が向上したことが、収率向上の理由の一つとして考えられた。
最後に、せっかく遺伝子組換え体を細胞に組み込んでも発現しない、サイレンシングも大きな問題である。サイレンシングにはDNAをメチル化するMethyltransferaseの関与が知られている。Methyltransferaseの構造的理解が進んでおり、サイレンシングの知識が深まることにより、有用タンパク質の発現効率が高まることが期待される。現在、構造生物学は、核酸―タンパク質複合体に見られる特異性の認識やシグナル伝達機構の構造的理解など、生命現象を司どる分子マシナリーの作用機構をその立体構造を通して明らかにしようとする方向に発展している。しかしながら、酵素の構造と機能の相関の解明は構造生物学の出発点であり、酵素工学の発展に構造生物学の果たした役割は大きいであろう。将来も、酵素工学がバイオインフォマティクスと構造生物学と相補的に発展していくことを願っている。