【巻頭言】

「振動する科学の解像度」、「個性と多様性」、「手触り感ある技術」

小川 順

京都大学大学院農学研究科

 

筆者の研究室には、昭和9年 (1934年) 卒業生の講義ノートが残されている。講義の主は、研究室の初代教授、片桐英郎教授である。欧州で先端科学を目の当たりにされた教授の講義が、黎明期の生化学を活き活きと学生に伝えている様子がうかがえる。しかし、解糖系のページを繰ると、たった87年前であるのに、フルクトース 1,6-二リン酸以外は不明の代謝物となっており、関与する酵素群も複雑系として記述されている。

講義ノートの年代から約20年後のDNAの構造解明、並行して進んだ、RNA・DNA生合成の理解、それらを基盤とした分子生物学の勃興、加えて、タンパク質結晶構造解析を介したタンパク質機能発現機構の解明など、現在に至るおよそ70年間のバイオテクノロジーの変遷は、加速度的にその解像度を上げてきた。酵素工学においても、高活性菌の選抜、酵素精製、遺伝子配列解読、結晶構造解析が年代を追って可能となり、今では解像度の高い情報に則って、多面的応用が進められている。87年前の講義室で、現代のバイオテクノロジーの進展を予想できた者はいただろうか。同じように我々は、未来の酵素工学の在り様を想像できるであろうか。どのような科学技術になっていようと、それらは、これからの地球社会が抱える問題を解決するものとして、発展していることを願う。

現在の研究室のホームページには、以下のような文章が掲げられている。
「これからの地球社会が目指す持続的社会は、健やかな物質循環と、授受関係にある生物間の健全な相互作用が保たれている社会と言えます。このような社会の実現に、地球上に広く存在し多様な働きを担う微生物が果たす役割はとても大きいのです。私たちの研究室では、微生物が持つユニークな潜在能力を探索・開発し、応用する研究を行っています。」

この文章には、自然界に新たな科学技術の種を探索する精神と、その種を生物間の関係性の理解から得ようとする思いが込められている。環境問題のような地球社会が抱える課題の解決には、複雑な生物間相互作用が発現する機能、生態系を駆動せしめている機能と言った、マクロな生物機能の活用が必要と考える。このような複雑系を理解する科学の解像度は、どのように推移するのだろうか。例えば、事象にともなって変化する菌叢の解析により、機能微生物群を抽出する。そして、抽出された微生物群の再構築により、機能発現機構の理解を深める。このように、研究がマクロからミクロへ、ミクロからメゾへと振動し、さらにはエクソ、クロノシステムを巻き込み多次元化すると筆者は考える。並行して、解析法も網羅的になるがゆえに、情報解析技術への依存度が高まってゆくであろう。なかには、意識的に論理性を排した解析過程を活用するような、新たな理解の方法論も必要となろう。

個人的な感覚だが、このような複雑系解析の海に飲まれると、対象とする生物の本質を見失いそうになる。そんな折は、生物の本質であり特徴である二つの軸を、物差しとして置くようにしている。その軸とは、個性と多様性である。この相反する要素が両立しているからこそ複雑系となり、そこに機能が発現すると考える。この二軸に沿って、科学の解像度を振動させることにより、絡繰りの理解を深める。

さて、ホームページの文章には、以下のような文言が続く。
「自然界から様々な微生物を収集し、健康・食料生産・環境保全・有用物質生産などに役立つ能力を見いだし、磨き上げ、実際に使われる形で世の中に送り出すことを目標に研究に取り組んでいます。」

成果を具体的に社会に役立てたい、という思いである。手前味噌で恐縮だが、筆者らが取り組んだ腸内細菌の食事脂質代謝研究は、複数の酵素が関与する多段階の反応が生み出す多様な代謝物の発見を起点に、メタボローム解析による体内分布の解明、共同研究者らによる生理機能解析、コホート研究を介した実際の機能発現の理解と、様々な領域を巻き込んだ学際的な展開となった。この研究の中心にあったのは、実体をともなった化合物であり、成果は、情報として共有されることを超え、手触り感ある技術として、実在の化合物に凝縮された。結果、この化合物が、機能性食品素材として世に出るに至った。このような、現実味ある成果の積み重ねが、研究を、そして関わる人たちを、活き活きとしたものへ昇華させるのだと思う。

酵素工学も、科学としての解像度を大きく振動させつつ、個性と多様性をベクトルとする新たな体系を生み出し、そして、手触り感のある成果を世に出すことを繰り返しながら、その姿を変えてゆくと想像する。87年後の科学者たちが、今の我々の取り組みに、活き活きとしたものを見いだすことを願ってやまない。あるいは、そうでありたいと、「振動する科学の解像度」、「個性と多様性」、「手触り感ある技術」に思いをはせながら、研究に取り組む毎日である。